文章の表現についての覚書、特に心情表現

 「僕は緊張している。」

 この文章をどう思いますか?きっとあなたはどうも思わないでしょう。しかし、この記事を読めばあなたもきっとこの文章がいかに醜悪な文章かを見に染みて知ることでしょう。ちなみに先に断っておくとこの文章は私の主観でしかないので学術的なものは何もないです。

 

 ちなみにこれから述べる議論は「文章によって何かを表現する」という限定的な状況を仮定した上で行われるものであって、Twitter、日記、その他諸々の雑多な文章についてはout of sightなやつです。小説だったりとかそういう文芸作品を相手取った議論な訳で、芸術とは無縁の言語表現に口出しするつもりはないのですね。

 

 じゃあ一体何がいけないんだい?いけなくないのかい?どっちなんだい?とそう筋肉に聞きたくなってしまう方もいらっしゃるかもしれませんので早々に結論を提示しておきますと、この文章は「事実を正確に切り出した表現ではない」ということなんですね。これではよくわからないと思いますので例をとって説明していきましょう。

 

 例えば「緊張」する状況をあげてみましょう。

 

・エントリーナンバー1番〜「夢」編〜(かっこいい)

 あなたはプロのピアニストになるのを夢見て必死に努力してきた天才ピアニスト(15歳)(まだ無名)だったとしましょう。ピアニッシモって感じですね(知らんけど)。あなたはとてもとてもとても凄いピアニストの主催するオーディション的なものに参加しました。これに通ればプロ間違いなしで無名のあなたにとってはうってつけでありました。一次予選の書類選考で勝ち残った約150人の若き高邁な理想に燃えるピアニスト達はこの二次予選において10人に絞られます。一人一人一通りピアノを演奏し、それを見て選考が行われるという形式です。刻一刻とあなたの番が近づいてきます。自分の見てきた世界とはやはりレベルが違う、そう刺激を受けながらも緊張してしまう、そんな状況下で次はようやくあなたの番です。結構緊張的じゃないですか?

 

・エントリーナンバー2番〜期待編〜

 あなたはテニスプレイヤーです。それもすごく強い。前回の世界大会では奇しくもフルセットでドイツの選手シュナイダー(適当です)に負けてしまいました。どちらが勝ってもおかしくないというような状況だったのですが、やはり負けてしまっては悔しいわけですね。周囲の期待に応えられなかったのは自分の鍛錬が足りていなかったからと思い、猛練習に猛練習を積み重ねました。そして、4年の月日が経ち決勝戦。相手は同じシュナイダー。自分の全力を出しきりたい、周囲の期待に応えたい、そんな気持ちで今まさにコートに入りました。こんな状況も緊張と呼べるのではないでしょうかね。

 

・エントリーナンバー3番〜期待、変奏編〜

 あなたはバカです。おそらく世の中を探してもあなたほどのバカはいないでしょう。春に受けたセンター模試は5点でした。しかし、あなたは気付いてしまったのです。このままではヤバいのでは?流石に5点はヤバいのでは?死ぬのでは?そして勉強に次ぐ勉強、†猛勉強†の決意をしたのです。1日25時間勉強してそれを2ヶ月続ければ夏のセンター模試は900点くらい取れるのではないか、あなたはそう考えたわけです。そしてあなたは周囲に宣言しました。俺は夏のセンター模試900点取るぜ、俺はヤバいぜ、ハーバード行くぜと高らかに叫びました。しかし周囲からいや無理だろという以前にこいつは何を言っているんだろうと思われる始末で、それでもあなたは努力し、2ヶ月間で1600時間ほど勉強することができました。そしてセンター模試当日。センター試験は2日に分けて行われるのに1日で終わらせるために1日中拘束されてしまうのはなんでなんだろうと思いながら試験まであと数分です。不安なところはなかっただろうか、俺は今輝いているだろうか、周囲に全く期待されない状況だが全力で満点を取りに行ってやるぜ!そんな状況です。これは意外と緊張すると思います。

 

 さてここまで3つの状況にエントリーしていただきました。そしてここで共通しているのはいずれも類型的に「緊張」という言葉を当てられる、ということです。しかし!!!!!!!!それらの「緊張」というのは少し違います。もちろん状況が違います。緊張が生まれる要因が違います。そして誰が緊張しているのかそれも違います。私が思うにこれはどれも「緊張」と言い表していい状況ではありません。人はいうかもしれませんね。「でも〜文脈ってものが〜あるし〜緊張だけでも〜?伝わるじゃ〜ん?」なるほど、確かにそういう意見もあるかもしれません。しかし小説、文芸作品というものにおいて「伝わればいい」という姿勢はおかしいでしょう。小説というのは人が、世界を解釈して、解釈された自分の世界を、文章によって切り出す、輪郭を明確にする、そういう表現動作の積み重ねによって生じる現象であると私は考えています。どういう感じの「緊張」なのか読者に読み取らせる、という文学的態度をお持ちの方は私とは相容れないのですが、そうではない、むしろこういう感じ!というのを提示して「緊張」を読み取らせるという文学的態度が理想的である、と私は思うのです。

 

 そもそも「緊張」という言葉は上にあげたような状況を類型的にまとめるためのものでしょう。こういう状況って「緊張」っていうよね〜、この状況も「緊張」っていう点ではその状況とおんなじだよね〜。そういうために作られたものだと私は思っています。もちろん個人的な意見ですが。夢のために努力するという状況、期待に応える状況、期待を裏切りたい状況、こういった異なる状況から生じる「緊張」は「緊張」とは呼んでいるけれど実際は全く別の世界のお話であり、「緊張」という言葉は事実を全く正確に切り取っていないわけですね。ではこういった類型的状況を類型的語彙によって表現するということがどういうことなのかを説明していきます。

 例えばこの青のボールペンを「緊張」だとします。

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次にこの黒いシャーペンを「怒り」だとします。

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そしてこの灰色の色鉛筆(グレーとも言う)を「悲しみ」だとします。

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続いてこの赤のボールペンをエントリーナンバー1番だとします。

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そして赤い赤のボールペンを2番。

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最後にこの青いサラサを3番。

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これで登場人物は出揃いました。さてあなたは今1番のボールペンを手に取りました。さぁどうやって表現しようか。そう頭を悩ましている時、まず「悲しみ」を手に取りました。

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そしてあなたは思いました。いやこれは流石に違うな、材質が違う、やめておこう。そうして「悲しみ」はやめておくでしょう。

 

 次に「怒り」を取りました。

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さっきよりは近づいたけど違うな...どうみても消しゴムで消える。そうして「怒り」もやめました。

 

 次に「緊張」を取りました。そしてあなたは思ったのです。

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あれ?これじゃね?と。これは来た、天才かもしれない、俺の語彙力を余すことなく使った最善の一手が見えた。そうしてあなたは「僕は緊張した。」と書いてしまうわけです。ちなみにここからもうこのボールペンたちは出てきません。

 

 ここまで長々と語ってきましたが、ようやく私が何を言いたいのか理解してくださる方もいらっしゃるかもしれません。私の言いたいことは「語彙力は表現力ではない」ということです。クッキーを作りましょう。あなたの頭の中にある理想の形を作りたいと思って、クッキーの型を片っ端から広げていきます。この広がったクッキーの型が語彙です。この語彙の中からいい感じのクッキーが作れることもあるかもしれません。しかしそうではないことの方が多いでしょう。たとえば藤原竜也が作りたいとか女装している天野凪くん(可愛い)を作りたいとか思った時にはきっとそのクッキーの型は存在しないのではないでしょうか。私の主張することは、クッキーの型は自分で作るべきだということです。自分の理想のクッキーに対して真摯であるべきだと思います。そうしてようやくできたあなたの理想にあなたが出来る限り近づけたクッキーの型、それはあなたの理想を表現するためだけに存在するものであり、それ以外のクッキーを表現することはできません。

 

 上のボールペンの動作を繰り返し行い、エントリーナンバー1番から3番が全員青のジェットストリームになってしまっていたとすれば、それは「表現」とは呼べません。私はそう思います。

 

  確かに語彙によって色々なものを表現することができます。語彙力がなければ納得のいく表現をすることは難しいでしょう。しかし、語彙力に頼った表現というのは自分の世界を表現するものではなく、既成概念に支配されて形を歪めてしまった、荒廃した世界を表現したものでしょう。「緊張」を辞書で引いてみましょうか。

 1、(意図せず)心身がこわばること。はりつめること。ひきしまること。

4番までありますが、例を取ったのはこの意味のものだけだと思うので必要ないでしょう。この辞書を見てもわかるように、「緊張」という言葉はこれだけしか表現できないのですね。人の言葉というものは文章によってこれ以上のものをたやすく表現できるはずです。

 

 そういうわけで私の言いたいのは、心情を表現するために直接的な心情表現を使うべきではないということです。「嬉しい」だとか「悲しい」だとかそういうものは文章で表現するものでしょう、そう私は主張します。

 

 しかしまぁ例外というものもあるわけで、『走れメロス』の「メロスは激怒した」なんかはわかりやすいですが、「激怒」という心情的方向性をはじめに提示してから後で「激怒」を表現する、というものですね。これは文章に濃淡をつけると言いますか、文章にリズム感を与えるために置いているものでいわゆる強調だと思うんですよね。『走れメロス』は力強い文体というのをよく挙げられますがその一環なのだと私は思っています。なので適切な表現を伴っていれば直接的な心情表現を入れてもいい時はあると思います。ただ入れる必要があまりないように感じられます。

 

 最後にエントリーしてくれた方々を自分なりに表現して終わりにします。

 

1番

 「抑えられない身体の震えを感じる。頭と身体とを分厚い壁が断絶しているのかと思うほどに、身体が言うことを聞かない。息の吸い方すら忘れてしまったのだろうか、息をやけに大きく吸い込み、気持ちを落ち着かせようとするが、ちぐはぐな呼吸は、一層身体の調律を狂わせた。袖幕の風に揺らされて擦れる音、審査員のメモを取る音、心音、今ここにある全てが耳にこびりついて離れない。最悪の気分だ。もう一人の自分が僕を押さえつけているかのように、僕の心は動きを止めてしまった。」

 ピアノも何も出てきませんが状況を知っていればある程度わかるでしょ。きっと天才ピアニストだからピアノの前に座ったらいつのまにか自分の世界に没入して、いつも通りの演奏ができる。そういう感じの次のシーンが思い浮かびますね。むしろここから小説を始めるというのもありかもしれません。

 

2番

「四年振りのこの空気。今この瞬間俺とあいつの2人のためだけにあるこのコート、この高い空のせいだろうか、異様な広さを持っているような気がする。体が浮ついているみたいだ。歓声が肌を突き刺し、風が心地よい。この場所に来て改めて思う。長年面倒を見てくれたコーチ、俺をずっと信じてくれた親、心の支えにもなっていた友人達、周囲の期待に応えたい。そして、世界に俺の最高のパフォーマンスを見せてつけてやりたい。勝利、この二文字が頭に浮かんだ。その瞬間、全身を快感が駆け抜けた。もう何も聞こえない。無音の世界、時が止まったのだろうか。チーターが獲物を狩る時のように、全身の神経が目となり耳となる。なんだろう。とても気分が良い。全身の神経が勝利だけを見ていた。」

 我ながら微妙。眠い中書いているからでしょうね。それにこういうの書かないですし。おそらく上げてから後悔する。

 

3番

「これまでの人生、俺は全力で何かをしたということがなかった。今日までの二ヶ月、自らの数多の欠点を悟らずにはいられなかった。しかし、これまでの自分とも今日限りでのお別れだ。誰にも期待されない状況、己のみを頼るしかない、そんな逆境はむしろ快感だ。鯉が滝を登って龍になるように、俺もこの試験で圧勝して状元を取る。不安なところはないだろうか。膨大な勉強時間に裏付けられた知識ははち切れんばかりに俺を支えてくれている。しかしそれでも絶対はない。俺は今輝いているだろうか。きっと輝いているはずだ。最高の未来へ向かう燦然と輝く道が俺には見える。」

 これが緊張の表現なのかと言われるとそうですよとしか言いようがありませんがこれは緊張じゃないですかね。眠すぎて全く推敲できていないです。ただ「俺は今輝いているだろうか」は最高に緊張を表現できていると思います。